2010年 02月 28日
二月 |
私の先生が「惜しい人をなくした」
と言った相手は、日本画家・加藤栄三だった。
先生は加藤栄三と同門、つまり松岡映丘門下で、
その当時、杉山寧、山本丘人、橋本明治、高山辰雄など、
今から見れば大変な人達がいたわけで、
その中で加藤栄三の自殺は特に残念だったようだ。
私が加藤栄三の絵を間近に見たのは「空」の絵で、
この人は空をデフォルメしていると思った。
その空のデフォルメの仕方は
眼に光の出入りから来る錯覚を実にうまく表現していた。
大胆な府分けによって空間が貫けるように
見る者の眼を彼方に吸い込んで行く。
先生はまた、彼の馬の絵を絶賛していた。
馬一頭をブルーで描き、岩絵具の塗り方もまた筆に頼らず、
私はその絵を写真でしか見ていないが、
当時の日本画としてめずらしいものであったと思う。
先生は加藤栄三の死因に言及していたが、それはともかく、
加藤栄三という人は人柄も良くやさしい人だったようだ。
私の先生の話はおもしろかった。
山本丘人の話になると笑い出すことしきりで、
要するに先生と丘人は大の仲良しで
しょっちゅう丘人は先生の家に来ていたと言う。
どういうわけか食事時が好きであったようだ。
先生の実家は地方ではあるが大きな料亭で、
そのせいもあって食べることにはうるさかった。
更に同門の話であるが、杉山寧のことは
「展覧会に落ちたことがないのは彼だけだった」と、
とにかく学生の時からうまかった、と言っていた。
私も彼の若描きの絹本の作品を見て、
「あんなに新しく描けるのか」と思ったことがあった。
「新しく」とは、つまり絹本はどうしても平板な画面になり易い。
ところが、透き通るような画面の中にボリュームがある。
あのうまさは東山にも高山にもない。
もう一つ私が杉山寧のことで言えば、
日本画家は大抵懇親会に紺の背広で来たが、
彼だけは白いスーツで登場して来たのを見て、
何とおしゃれな人だろうと思った。
かっこいい画家だった。
二月は私の先生が亡くなった月で、
先生を思い出しながら書いてみた。
と言った相手は、日本画家・加藤栄三だった。
先生は加藤栄三と同門、つまり松岡映丘門下で、
その当時、杉山寧、山本丘人、橋本明治、高山辰雄など、
今から見れば大変な人達がいたわけで、
その中で加藤栄三の自殺は特に残念だったようだ。
私が加藤栄三の絵を間近に見たのは「空」の絵で、
この人は空をデフォルメしていると思った。
その空のデフォルメの仕方は
眼に光の出入りから来る錯覚を実にうまく表現していた。
大胆な府分けによって空間が貫けるように
見る者の眼を彼方に吸い込んで行く。
先生はまた、彼の馬の絵を絶賛していた。
馬一頭をブルーで描き、岩絵具の塗り方もまた筆に頼らず、
私はその絵を写真でしか見ていないが、
当時の日本画としてめずらしいものであったと思う。
先生は加藤栄三の死因に言及していたが、それはともかく、
加藤栄三という人は人柄も良くやさしい人だったようだ。
私の先生の話はおもしろかった。
山本丘人の話になると笑い出すことしきりで、
要するに先生と丘人は大の仲良しで
しょっちゅう丘人は先生の家に来ていたと言う。
どういうわけか食事時が好きであったようだ。
先生の実家は地方ではあるが大きな料亭で、
そのせいもあって食べることにはうるさかった。
更に同門の話であるが、杉山寧のことは
「展覧会に落ちたことがないのは彼だけだった」と、
とにかく学生の時からうまかった、と言っていた。
私も彼の若描きの絹本の作品を見て、
「あんなに新しく描けるのか」と思ったことがあった。
「新しく」とは、つまり絹本はどうしても平板な画面になり易い。
ところが、透き通るような画面の中にボリュームがある。
あのうまさは東山にも高山にもない。
もう一つ私が杉山寧のことで言えば、
日本画家は大抵懇親会に紺の背広で来たが、
彼だけは白いスーツで登場して来たのを見て、
何とおしゃれな人だろうと思った。
かっこいい画家だった。
二月は私の先生が亡くなった月で、
先生を思い出しながら書いてみた。
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by fromberlin
| 2010-02-28 00:11
| 日本の美のかたち