2009年 09月 24日
抽象絵画と意識 |
抽象絵画がどのようにして出来上がるか。を考えてみる。
と言ってもテクニックのことではない。
脳みその働き、作動である。
始めは、外部の手作業と意識の上で画面は作られていく。
しかし、意識によって作られるものの範囲というものは非常に狭く、浅いので、
やがて外部の動きと意識は、それ自体に飽きてくる。
そこでやがて作業は、意識を度外視するようになり、
その連続作業は、やがて、無意識の分野を刺激し始める。
しかし無意識の中に、求めるものは存在しないのである。
求めるものは、潜在意識の中にある。
潜在意識はまた、深いところにあり、
意識とはかなり距離を持っている。
潜在意識には、その人の全て。
と言って良いくらいに、蔵されている。
その人の精神的な根本・原資というものが、
潜在意識の中には蔵されているのである。
しかし、いつもそこからその人の考えが出てくるのか。
というと、そうではない。
その人の考えは、意識の中から出て来る。
そこで意識が、やがて無意識を刺激した時、
あるいは無意識が動き出した時、
無意識は潜在意識に働きかける。
その結果、潜在意識は意識中に、その人の原資を見せるのである。
それが画面に現れ出す。
そこに抽象画の醍醐味がある。
つまり、眼と手と意識は無意識に働きかけ、無意識を動かす。
すると、無意識は潜在意識に働きかけ、
潜在意識は、意識の中に原資を送り込むのである。
抽象絵画は、この三つの意識の上に完成する。
しかし一つ断っておくが、潜在意識の原資は、
何もしなくても内蔵されるものではない。
幼児からの多くの経験によって、
あるいは先祖の血脈によって、その内蔵量は異なる。
海外出品相談所 TERADA
と言ってもテクニックのことではない。
脳みその働き、作動である。
始めは、外部の手作業と意識の上で画面は作られていく。
しかし、意識によって作られるものの範囲というものは非常に狭く、浅いので、
やがて外部の動きと意識は、それ自体に飽きてくる。
そこでやがて作業は、意識を度外視するようになり、
その連続作業は、やがて、無意識の分野を刺激し始める。
しかし無意識の中に、求めるものは存在しないのである。
求めるものは、潜在意識の中にある。
潜在意識はまた、深いところにあり、
意識とはかなり距離を持っている。
潜在意識には、その人の全て。
と言って良いくらいに、蔵されている。
その人の精神的な根本・原資というものが、
潜在意識の中には蔵されているのである。
しかし、いつもそこからその人の考えが出てくるのか。
というと、そうではない。
その人の考えは、意識の中から出て来る。
そこで意識が、やがて無意識を刺激した時、
あるいは無意識が動き出した時、
無意識は潜在意識に働きかける。
その結果、潜在意識は意識中に、その人の原資を見せるのである。
それが画面に現れ出す。
そこに抽象画の醍醐味がある。
つまり、眼と手と意識は無意識に働きかけ、無意識を動かす。
すると、無意識は潜在意識に働きかけ、
潜在意識は、意識の中に原資を送り込むのである。
抽象絵画は、この三つの意識の上に完成する。
しかし一つ断っておくが、潜在意識の原資は、
何もしなくても内蔵されるものではない。
幼児からの多くの経験によって、
あるいは先祖の血脈によって、その内蔵量は異なる。
海外出品相談所 TERADA
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by fromberlin
| 2009-09-24 20:20
| アート