2010年 04月 06日
日本美術界 |
日本のギャラリーは、美術とは、芸術とは、
ということになると、問題が山積みである。
彼ら日本のギャラリーが分かっているのは、
芸術家の名前である。
なぜそのように思ったか、と言えば、
東京アートフェアの出展画廊の絵を見てそのように思った。
つまり、そこには芸術観というものはなく、
先人芸術の類似品が羅列されているからである。
コンテンポラリーという言い方も
ほとんど理解されないまま都合よく使っているだけで、
コンテンポラリーのコンセプトを持っているのか、と言えば、
ただ、言葉だけを使っているだけである。
若い時、銀座の画廊に良く足を運んだ。
そこから見聞きしたものは全て
自分の脳みその中に入れ込んでいったものだが、
今、そのことを思い起こすと、彼らの言っていたことは、
彼らもまた聞きかじったもので、
本当に自分達の経験からの発言でないことが
最近、はっきり分かった。
つまり、彼らは先輩から受け継いだ言文で
私に語っただけである。
だから、時代とともに変化していく
芸術ということにはついて行けないのである。
芸術は、時間(時代)とともに変化し続ける要素を持っている。
このことは、一体何から来るのか、となると、
社会状況と科学の進歩である。
この二つの要因によって、芸術は変化し、進む。
私はここでは進化という言葉は使わない。
進化とは、良い方向へ進むことであるからだ。
そこに行くと、最近の芸術は進化とは言えない。
あるいは退化と言った方が的を得ているように思う。
その位、最近のものは良くない。
特に日本の美術界は退化そのものである。
なぜか?と考えてみると、
要するに日本の特質した社会状況や社会の仕組みから来る。
美術界も今や家元制度である。
二世三世の芸術家に甘い体質である。
下手くそな作品だと判っていてもその親が良ければ、
美術業界ではちやほやされる。
そういう甘い体質、くだらない社会の体質が
日本をだめにしている。
美術評論家の文もただ誉めるだけでは、作家の進歩がない。
どんどん、辛辣なことを言わねばならない。
だめなものはだめ、良いものは良い。
実は社会を良くするのも、
この二つの言葉があれば充分なのである。
その辺のところ、もう少しみんなで考えようではないか。
ということになると、問題が山積みである。
彼ら日本のギャラリーが分かっているのは、
芸術家の名前である。
なぜそのように思ったか、と言えば、
東京アートフェアの出展画廊の絵を見てそのように思った。
つまり、そこには芸術観というものはなく、
先人芸術の類似品が羅列されているからである。
コンテンポラリーという言い方も
ほとんど理解されないまま都合よく使っているだけで、
コンテンポラリーのコンセプトを持っているのか、と言えば、
ただ、言葉だけを使っているだけである。
若い時、銀座の画廊に良く足を運んだ。
そこから見聞きしたものは全て
自分の脳みその中に入れ込んでいったものだが、
今、そのことを思い起こすと、彼らの言っていたことは、
彼らもまた聞きかじったもので、
本当に自分達の経験からの発言でないことが
最近、はっきり分かった。
つまり、彼らは先輩から受け継いだ言文で
私に語っただけである。
だから、時代とともに変化していく
芸術ということにはついて行けないのである。
芸術は、時間(時代)とともに変化し続ける要素を持っている。
このことは、一体何から来るのか、となると、
社会状況と科学の進歩である。
この二つの要因によって、芸術は変化し、進む。
私はここでは進化という言葉は使わない。
進化とは、良い方向へ進むことであるからだ。
そこに行くと、最近の芸術は進化とは言えない。
あるいは退化と言った方が的を得ているように思う。
その位、最近のものは良くない。
特に日本の美術界は退化そのものである。
なぜか?と考えてみると、
要するに日本の特質した社会状況や社会の仕組みから来る。
美術界も今や家元制度である。
二世三世の芸術家に甘い体質である。
下手くそな作品だと判っていてもその親が良ければ、
美術業界ではちやほやされる。
そういう甘い体質、くだらない社会の体質が
日本をだめにしている。
美術評論家の文もただ誉めるだけでは、作家の進歩がない。
どんどん、辛辣なことを言わねばならない。
だめなものはだめ、良いものは良い。
実は社会を良くするのも、
この二つの言葉があれば充分なのである。
その辺のところ、もう少しみんなで考えようではないか。
by fromberlin
| 2010-04-06 07:52
| アート