2010年 03月 27日
言葉 |
ある日、言葉について触れることがあった。
つまり、「寺田はドイツ語か英語でやっているのか」となって、
私は「どちらもだめ!」と言ったが、
ドイツで暮らしていても、ドイツ語を流暢に話さねばならない。
ということもなく、私のように片言で充分間に合う。
絵の説明はどうか、となるが、
下手なドイツ語や英語で説明するより、通訳を入れた方がいいし、
何も説明しなくても良い。
つまり、作品の内容や自分の哲学を言葉にすると
説明しづらく、理解されにくい。
まして、慣れない外国語では、尚更のことである。
それなら黙っていた方が良い。
良く、日本の会社で英語でディスカッション、
討論をするところがあるが、
日本人は日本語でさえ討論が出来ないのに、
英語で出来るはずもない。
まず、日本語で徹底的に討論をする癖をつけることである。
言葉とは便利なものであるが、
その状況を100%説明することは不可能である。
それ故、芸術も100%言語化することは不可能である。
最近は芸術家を取り上げて商売にする文学系の人が多いが、
言うことは勝手であるとしても、
本来の芸術から逸脱した文章になっていることが多い。
と考える。
文章の書き手が、もう少し芸術について深く追求した果てに、
そのようなものを表現するべきであるが、
過去の本からだけ学び、経験に裏打ちされたものが見られない。
美術評論家の一冊の本よりも
画家の一枚の絵の語る内容の方が
重く深いものだと言える。
私は、ある展覧会で、フォーチュナ(幸運の女神)
というタイトルの絵を出品して、
「何故これがフォーチュナか?」と尋ねられた。
私は敢えて説明する気もなく、その場をやり過ごした。
私のタイトルの付け方は、誰もがわかる簡単な言葉を使い、
見る側を絵の中に入り込ませる。
そして、深く考えさせる。
という方法を取っている。
もし見る側がそれでも理解出来ないのであれば致し方ない。
何でもかんでも理解させようとする考えは良くない。
わかる人。わからない人。があって良いのである。
つまり、「寺田はドイツ語か英語でやっているのか」となって、
私は「どちらもだめ!」と言ったが、
ドイツで暮らしていても、ドイツ語を流暢に話さねばならない。
ということもなく、私のように片言で充分間に合う。
絵の説明はどうか、となるが、
下手なドイツ語や英語で説明するより、通訳を入れた方がいいし、
何も説明しなくても良い。
つまり、作品の内容や自分の哲学を言葉にすると
説明しづらく、理解されにくい。
まして、慣れない外国語では、尚更のことである。
それなら黙っていた方が良い。
良く、日本の会社で英語でディスカッション、
討論をするところがあるが、
日本人は日本語でさえ討論が出来ないのに、
英語で出来るはずもない。
まず、日本語で徹底的に討論をする癖をつけることである。
言葉とは便利なものであるが、
その状況を100%説明することは不可能である。
それ故、芸術も100%言語化することは不可能である。
最近は芸術家を取り上げて商売にする文学系の人が多いが、
言うことは勝手であるとしても、
本来の芸術から逸脱した文章になっていることが多い。
と考える。
文章の書き手が、もう少し芸術について深く追求した果てに、
そのようなものを表現するべきであるが、
過去の本からだけ学び、経験に裏打ちされたものが見られない。
美術評論家の一冊の本よりも
画家の一枚の絵の語る内容の方が
重く深いものだと言える。
私は、ある展覧会で、フォーチュナ(幸運の女神)
というタイトルの絵を出品して、
「何故これがフォーチュナか?」と尋ねられた。
私は敢えて説明する気もなく、その場をやり過ごした。
私のタイトルの付け方は、誰もがわかる簡単な言葉を使い、
見る側を絵の中に入り込ませる。
そして、深く考えさせる。
という方法を取っている。
もし見る側がそれでも理解出来ないのであれば致し方ない。
何でもかんでも理解させようとする考えは良くない。
わかる人。わからない人。があって良いのである。
by fromberlin
| 2010-03-27 23:16
| アート