2010年 01月 06日
ベックリン |
ドイツに来て、ドイツ人の感覚、美意識-美の捉え方-を見ていると、
その基本は聴覚ではないか。と。
歴史を見ても、四方八方に敵を持っているために起こる
感度の研ぎ澄まされ方。とでも言おうか。
静かな森の中で起こる木々の音、平原や湖を渡る風の音。
生活習慣においても静かさを好み、
音に対する生活規則を持っていることを見ても・・・。
ドイツ人は聴覚的人間である。と考えた。
その他の民族を考えてみれば、
日本人やフランス人は、視覚人間。
中国人やユダヤ人は、臭覚、あるいは触覚人間。
となる。アメリカ人は・・・となるが、
アメリカ民族という単一のものは無いので、表せない。
さて、ドイツ人の美意識を聴覚とし、
そこからドイツ芸術を見るようになり、
ベルリンに移って、一枚の大きな看板に、
数人の過去の芸術家の写真が載っている広告を見た。
その一人の芸術家の下に、
”Die Deutschen sehen mit den Ohren.”とあった。
「ドイツ人は、耳で見る。」
芸術家・アーノルドベックリン(Arnold Boecklin)の言葉である。
ベックリンは、バーゼルで生まれた。
-バーゼル・ジャパンとこじつけるつもりはない。これはただの偶然である。-
ベックリンの言葉を見て、
私のドイツ観、美意識の捉え方が裏付けられたことを喜んだ。
ベックリンの活動した時代はフランス印象派の全盛期であったが、
彼はそれには見向きもせず、
文学・神話・聖書等に題材を求め、想像の世界を画面に表した。
その中で、円熟期と言われる1880年から1886年にかけて、
「死の島」を描いている。
この絵は、5点描かれているが、私はこの絵をベルリンで観ることになった。
観ていて吸い込まれそうになる絵だった。
ベックリンは、当時の流行-フランス印象派-
とは無関心に、自分の活動をした。
-当時は、ドイツ印象派があったのである。
バーゼルで生まれ、若い時はヨーロッパを転々として、
生涯の大部分をドイツとイタリアで過ごしている。
今、日本企業の多いデュッセルドルフで美術を学び、
ヴァイマールの美術学校で教えていたこともある。
話を「死の島」に戻す。
一体、死の島をなぜ5点も描いたのか。というところに興味がある。
注文があったから。と言えば簡単であるが、
5作品とも別な技法で描いているのを見ると、
ベックリンは、「死の島」に、並々ならぬこだわり、
つまり、これは、ベックリン自身の内なるものへの「問い」
であったのではないか。
ベックリンはその他の作品として、「骸骨のある自画像」を描いている。
この作品と合わせて考えてみると、生と死は同じ。
いつも隣合わせになっている。
そこまでは一般的であるが、彼が考えたことは、
生も死も同じ次元、生も死も同じこと。
それは、般若心経に表現されているもの。
それと考えて良いのではないか。
私は、この絵をそのように捉えている。
この絵の画面構成からどうのこうの・・・。ということは、
逆にこの絵の見方を狭くするので、それは避けたい。
前々から、アーノルドベックリンの「死の島」が気になっていたが、
一人の参加者からの要望もあって取り上げてみた。
その基本は聴覚ではないか。と。
歴史を見ても、四方八方に敵を持っているために起こる
感度の研ぎ澄まされ方。とでも言おうか。
静かな森の中で起こる木々の音、平原や湖を渡る風の音。
生活習慣においても静かさを好み、
音に対する生活規則を持っていることを見ても・・・。
ドイツ人は聴覚的人間である。と考えた。
その他の民族を考えてみれば、
日本人やフランス人は、視覚人間。
中国人やユダヤ人は、臭覚、あるいは触覚人間。
となる。アメリカ人は・・・となるが、
アメリカ民族という単一のものは無いので、表せない。
さて、ドイツ人の美意識を聴覚とし、
そこからドイツ芸術を見るようになり、
ベルリンに移って、一枚の大きな看板に、
数人の過去の芸術家の写真が載っている広告を見た。
その一人の芸術家の下に、
”Die Deutschen sehen mit den Ohren.”とあった。
「ドイツ人は、耳で見る。」
芸術家・アーノルドベックリン(Arnold Boecklin)の言葉である。
ベックリンは、バーゼルで生まれた。
-バーゼル・ジャパンとこじつけるつもりはない。これはただの偶然である。-
ベックリンの言葉を見て、
私のドイツ観、美意識の捉え方が裏付けられたことを喜んだ。
ベックリンの活動した時代はフランス印象派の全盛期であったが、
彼はそれには見向きもせず、
文学・神話・聖書等に題材を求め、想像の世界を画面に表した。
その中で、円熟期と言われる1880年から1886年にかけて、
「死の島」を描いている。
この絵は、5点描かれているが、私はこの絵をベルリンで観ることになった。
観ていて吸い込まれそうになる絵だった。
ベックリンは、当時の流行-フランス印象派-
とは無関心に、自分の活動をした。
-当時は、ドイツ印象派があったのである。
バーゼルで生まれ、若い時はヨーロッパを転々として、
生涯の大部分をドイツとイタリアで過ごしている。
今、日本企業の多いデュッセルドルフで美術を学び、
ヴァイマールの美術学校で教えていたこともある。
話を「死の島」に戻す。
一体、死の島をなぜ5点も描いたのか。というところに興味がある。
注文があったから。と言えば簡単であるが、
5作品とも別な技法で描いているのを見ると、
ベックリンは、「死の島」に、並々ならぬこだわり、
つまり、これは、ベックリン自身の内なるものへの「問い」
であったのではないか。
ベックリンはその他の作品として、「骸骨のある自画像」を描いている。
この作品と合わせて考えてみると、生と死は同じ。
いつも隣合わせになっている。
そこまでは一般的であるが、彼が考えたことは、
生も死も同じ次元、生も死も同じこと。
それは、般若心経に表現されているもの。
それと考えて良いのではないか。
私は、この絵をそのように捉えている。
この絵の画面構成からどうのこうの・・・。ということは、
逆にこの絵の見方を狭くするので、それは避けたい。
前々から、アーノルドベックリンの「死の島」が気になっていたが、
一人の参加者からの要望もあって取り上げてみた。
by fromberlin
| 2010-01-06 20:18
| アート