2009年 07月 23日
バイロイト音楽祭 |
21日、バイロイトの音楽祭に行った。
友人のオペラ歌手、アルフォンス・エーベルトの招待で、
「ジークフリート」のゲネラルプロ-ベを観た。
アルフォンスは昨年、日本の新国立劇場で、
ドイツ・オペラ「魔弾の射手」の主役を演じた歌手で、
ドイツオペラ界で重要なポジションに居る。
その彼からの連絡で招待にあずかることとなったが、
実は私は、前にもバイロイトの音楽祭を観ていたので、
私の友人にその券を譲った。
すると、「また券を用意したので、観るだけ観たらどうか。」となった。
それでとにかく彼の言う通り、ジークフリートを観たが、
判っきり言って、良くない作品だった。
一回目の休憩の時、そのことをアルフォンスに言った。
歌手が悪い。というのではない。
歌手もオーケストラもきちんと自分の力を出し切っている。
バイロイト音楽祭は、オーケストラも歌手も
世界の一流の出演者によるものであるから、
それぞれの力量は、何も文句のつけようがない。
では、何が悪いか。となると、明らかに監督である。
世界一流のオーケストラ、一流のオペラ歌手、
これらの組み立てが全く良くない。ということである。
作曲者・リヒャルト・ワーグナーは、
それぞれの役に個性を与えて歌劇をつくっている。
それは、衣装とかということではなく、役の曲に個性を与えているのである。
ところが、今回の歌手の声質がほとんど同じ歌手で構成されているので、
彼らの歌う歌に立体感がない。
それが第一の点と、肝心のジークフリート役の歌唱力が物足りなかった。
はっきり言えば、脇役に負けていた。
次に感心しなかったのは、舞台装置であった。
今のアート界から引っ張り出してきた画面であったが、
そこに、わけもなく子供が出てきたり・・・と、
何と表現したら良いのか。一昔前の現代アート。
と言った方がいいかもしれない。
私は、二幕を観てやめた。
三幕は観ないで帰った。この作品の失敗は、完全に監督にある。
こうした事を絵で言うと。
「あれも描きたい。これも描きたい。」と言って、
画面の中にいろんなモチーフを入れてしまい、
一体描き手は、何を描きたいのか?となってしまったようなもので、
描き手の求める真実は、どこにあったのか。ということである。
私の詩集「創造」の中に、次の詩がある。
切り落す。
創作において、切り落とすことは必要条件だ。
文字通り切って余分なものを落とすことだが、
果たして余分なものとは何か。
それは、画面の中で表現の真実を拒むもの。
真実を見えにくくしているもの
真実を曖昧にしているもの
真実を弱くしているもの
真実を誇張し過ぎているもの
それらを容赦なく切り落とす。
友人のオペラ歌手、アルフォンス・エーベルトの招待で、
「ジークフリート」のゲネラルプロ-ベを観た。
アルフォンスは昨年、日本の新国立劇場で、
ドイツ・オペラ「魔弾の射手」の主役を演じた歌手で、
ドイツオペラ界で重要なポジションに居る。
その彼からの連絡で招待にあずかることとなったが、
実は私は、前にもバイロイトの音楽祭を観ていたので、
私の友人にその券を譲った。
すると、「また券を用意したので、観るだけ観たらどうか。」となった。
それでとにかく彼の言う通り、ジークフリートを観たが、
判っきり言って、良くない作品だった。
一回目の休憩の時、そのことをアルフォンスに言った。
歌手が悪い。というのではない。
歌手もオーケストラもきちんと自分の力を出し切っている。
バイロイト音楽祭は、オーケストラも歌手も
世界の一流の出演者によるものであるから、
それぞれの力量は、何も文句のつけようがない。
では、何が悪いか。となると、明らかに監督である。
世界一流のオーケストラ、一流のオペラ歌手、
これらの組み立てが全く良くない。ということである。
作曲者・リヒャルト・ワーグナーは、
それぞれの役に個性を与えて歌劇をつくっている。
それは、衣装とかということではなく、役の曲に個性を与えているのである。
ところが、今回の歌手の声質がほとんど同じ歌手で構成されているので、
彼らの歌う歌に立体感がない。
それが第一の点と、肝心のジークフリート役の歌唱力が物足りなかった。
はっきり言えば、脇役に負けていた。
次に感心しなかったのは、舞台装置であった。
今のアート界から引っ張り出してきた画面であったが、
そこに、わけもなく子供が出てきたり・・・と、
何と表現したら良いのか。一昔前の現代アート。
と言った方がいいかもしれない。
私は、二幕を観てやめた。
三幕は観ないで帰った。この作品の失敗は、完全に監督にある。
こうした事を絵で言うと。
「あれも描きたい。これも描きたい。」と言って、
画面の中にいろんなモチーフを入れてしまい、
一体描き手は、何を描きたいのか?となってしまったようなもので、
描き手の求める真実は、どこにあったのか。ということである。
私の詩集「創造」の中に、次の詩がある。
切り落す。
創作において、切り落とすことは必要条件だ。
文字通り切って余分なものを落とすことだが、
果たして余分なものとは何か。
それは、画面の中で表現の真実を拒むもの。
真実を見えにくくしているもの
真実を曖昧にしているもの
真実を弱くしているもの
真実を誇張し過ぎているもの
それらを容赦なく切り落とす。
by fromberlin
| 2009-07-23 15:33
| アート