2009年 06月 10日
坊主と袈裟 |
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というのがあるが、
これは日本人の交際ベタを表している。
例えば、日本人はプライベートな時間でも商談相手と何かで喧嘩になると、
次の商談の契約は、当然無くなってしまうし、それ以後、交際は断絶してしまう。
つまりどんな形であれ、一度喧嘩状態になると、
なかなか仲直りして元の状態になれない。
それ故、日本人は国際間においても喧嘩をしないようにする。
逆に、そこを相手国から突かれる。
それは明らかに、日本人の弱点となっている。
これは、日本人が、仕事もプライベートの時間も一緒に考えてしまうからである。
つまり、坊主は坊主だけで考え、袈裟は袈裟で考えねばならない。
そこにいくと、ヨーロッパ人は言いたい放題言い、
喧嘩になっても、どうしてそうなったのかを再度考えて話し合う。
そしてまた、もとのように交際する。
だから、「けじめ」という点については、ヨーロッパの連中の方が数段上である。
良い例が、北朝鮮との交渉である。
その結果、旨いところをアメリカや中国に持って行かれている。
ヨーロッパ人の日常生活を見ていると、
まるで禅の考え方が取り入れられているように思う時があるが、
これはヨーロッパ人の個人主義から来るものである。
しかし、彼らの個人主義は、禅のそれとは違う。
禅はある意味において、個人主義であると言われる。
それを人が見ると、世間からかけ離れた存在に見え、
孤高のように思われがちである。
しかし、それは、誤った見方である。
ただ、禅者は、「坊主は坊主、袈裟は袈裟」
と考えているだけに過ぎない。
そういうことで、日本で完璧に完成された禅哲学が、
実は日本人の考え方に浸透していない。
いや、浸透しなくなったのだ。
と言った方が良い。
それは、いつからか?と言えば、
物によって日本人が毒されてからではないかと思う。
しかし、これも一つの時代の傾向と言える。
これは日本人の交際ベタを表している。
例えば、日本人はプライベートな時間でも商談相手と何かで喧嘩になると、
次の商談の契約は、当然無くなってしまうし、それ以後、交際は断絶してしまう。
つまりどんな形であれ、一度喧嘩状態になると、
なかなか仲直りして元の状態になれない。
それ故、日本人は国際間においても喧嘩をしないようにする。
逆に、そこを相手国から突かれる。
それは明らかに、日本人の弱点となっている。
これは、日本人が、仕事もプライベートの時間も一緒に考えてしまうからである。
つまり、坊主は坊主だけで考え、袈裟は袈裟で考えねばならない。
そこにいくと、ヨーロッパ人は言いたい放題言い、
喧嘩になっても、どうしてそうなったのかを再度考えて話し合う。
そしてまた、もとのように交際する。
だから、「けじめ」という点については、ヨーロッパの連中の方が数段上である。
良い例が、北朝鮮との交渉である。
その結果、旨いところをアメリカや中国に持って行かれている。
ヨーロッパ人の日常生活を見ていると、
まるで禅の考え方が取り入れられているように思う時があるが、
これはヨーロッパ人の個人主義から来るものである。
しかし、彼らの個人主義は、禅のそれとは違う。
禅はある意味において、個人主義であると言われる。
それを人が見ると、世間からかけ離れた存在に見え、
孤高のように思われがちである。
しかし、それは、誤った見方である。
ただ、禅者は、「坊主は坊主、袈裟は袈裟」
と考えているだけに過ぎない。
そういうことで、日本で完璧に完成された禅哲学が、
実は日本人の考え方に浸透していない。
いや、浸透しなくなったのだ。
と言った方が良い。
それは、いつからか?と言えば、
物によって日本人が毒されてからではないかと思う。
しかし、これも一つの時代の傾向と言える。
by fromberlin
| 2009-06-10 01:42
| 社会