2009年 06月 04日
無我 |
金澤に行った時、古九谷をさんざん見た。
その時の感激が今も忘れられないが、その時、同時に新しい人の作品も見た。
もちろんその違いは歴然としていることはわかるが、
問題は作る姿勢、つまり、「作る」という意味の含蓄というやつが違うように思う。
古九谷の職人のわざを見ていると、無我夢中というものが作陶の中に見える。
そこにいくと、新しい人達の作陶には全くそれが無く、何か不純な計算ばかりが見える。
それ故、前者の作品は生きている。動いている。
中には、線が間違っているのもあったが、そんなこと何の気にもならない。
逆にそれは夢中から出ているものであるから、そこにも職人の意気込みが感じられる。
ものづくりの根本は、このような無我夢中の中にこそあると思える。
創作を計算づくめでやるのは建築屋くらいで、
私達のように、好きで作ってそれを売る。あるいは売られる。
というのは、無我の境地がなければならないのである。
誰かを気にしたり、媚びたりしていては、
せっかくの自由創作業というやつが死んでしまう。
別にこれは古九谷に限らず、
その他の作家、全員に言えることである。
その時の感激が今も忘れられないが、その時、同時に新しい人の作品も見た。
もちろんその違いは歴然としていることはわかるが、
問題は作る姿勢、つまり、「作る」という意味の含蓄というやつが違うように思う。
古九谷の職人のわざを見ていると、無我夢中というものが作陶の中に見える。
そこにいくと、新しい人達の作陶には全くそれが無く、何か不純な計算ばかりが見える。
それ故、前者の作品は生きている。動いている。
中には、線が間違っているのもあったが、そんなこと何の気にもならない。
逆にそれは夢中から出ているものであるから、そこにも職人の意気込みが感じられる。
ものづくりの根本は、このような無我夢中の中にこそあると思える。
創作を計算づくめでやるのは建築屋くらいで、
私達のように、好きで作ってそれを売る。あるいは売られる。
というのは、無我の境地がなければならないのである。
誰かを気にしたり、媚びたりしていては、
せっかくの自由創作業というやつが死んでしまう。
別にこれは古九谷に限らず、
その他の作家、全員に言えることである。
by fromberlin
| 2009-06-04 20:52
| アート