2009年 06月 04日
禅と絵画 |
禅と絵画、及び現代アートとの共通性を言う人がいるが、
それについて私は、全面的に賛成出来ない。
ある人が、禅こそ現代アートだ。
などと言うのを聞くと、それは違う。と言うしかない。
禅哲学を芸術作品の中に見ることは出来るが、
その作品が禅哲学そのものであるというのは、おかしい。
同じように、禅哲学を描いた作品を芸術作品とするのは、どうかと思う。
キリスト教の教会に行くと、キリスト教を説明している絵があるが、
あれと同じである。
ところが東洋(中国・日本)では、禅においてキリスト教のように具体的に説明しない。
それは、禅に注釈をつければつけるほど、禅、つまり悟りとほど遠くなり、
禅が文学化してくるからである。
文学化ということは理論になり、それは明らかに禅匠達が嫌う知識ということになる。
もちろん知識は必要であるが、禅は知識(理論)で構築されるものではなく、
意志によって働き、体得されるものであるからである。
私の絵を禅的絵画という人達がいるが、それは全く違う。
私は自分の考えのよりどころとして、禅哲学を学んでいるだけである。
絵を描いているのは私の仕事であり、生活の糧として制作しているのであって、
特別に禅芸術を生み出すとかいう考えは毛頭ない。
正直言えば、出来あがった作品を見て、「売れてくれればいいなあ。」と思うだけである。
ドイツ人は私を禅仏教画家などと言っているが、
私の作品からそのように私を思うのであれば、
それに対して私が否定的意見を言う必要もない。
少し焦点がそれたが、絵画は絵画であって、禅は禅である。
どちらにもあまり説明が多すぎると、根本を見失うことになりかねない。
それについて私は、全面的に賛成出来ない。
ある人が、禅こそ現代アートだ。
などと言うのを聞くと、それは違う。と言うしかない。
禅哲学を芸術作品の中に見ることは出来るが、
その作品が禅哲学そのものであるというのは、おかしい。
同じように、禅哲学を描いた作品を芸術作品とするのは、どうかと思う。
キリスト教の教会に行くと、キリスト教を説明している絵があるが、
あれと同じである。
ところが東洋(中国・日本)では、禅においてキリスト教のように具体的に説明しない。
それは、禅に注釈をつければつけるほど、禅、つまり悟りとほど遠くなり、
禅が文学化してくるからである。
文学化ということは理論になり、それは明らかに禅匠達が嫌う知識ということになる。
もちろん知識は必要であるが、禅は知識(理論)で構築されるものではなく、
意志によって働き、体得されるものであるからである。
私の絵を禅的絵画という人達がいるが、それは全く違う。
私は自分の考えのよりどころとして、禅哲学を学んでいるだけである。
絵を描いているのは私の仕事であり、生活の糧として制作しているのであって、
特別に禅芸術を生み出すとかいう考えは毛頭ない。
正直言えば、出来あがった作品を見て、「売れてくれればいいなあ。」と思うだけである。
ドイツ人は私を禅仏教画家などと言っているが、
私の作品からそのように私を思うのであれば、
それに対して私が否定的意見を言う必要もない。
少し焦点がそれたが、絵画は絵画であって、禅は禅である。
どちらにもあまり説明が多すぎると、根本を見失うことになりかねない。
by fromberlin
| 2009-06-04 00:48
| 禅