2009年 05月 23日
日本の美のかたち・2 高山辰雄 「食べる」 |
近代日本画の作品で、高山辰雄の「食べる」という作品がある。
この作品は私の知る限り、若い時(前作まえさく)と
後年(あと描き)に描いた二作品を私は目にしている。
モチーフはどちらも子供であるが、若い時の作品は自身の娘であり、
もう一作は、今度は孫ではないかと推測する。
初めの作品は人物を正面から捉えている構図であり、
後の作品は横から人物を捉えている構図である。
高山辰雄にとってこの二つの作品は、
画家の時間の経過を見せていることがわかる。
初めの作品を描いている時は、それほど絵も売れていなかったので、
画面から感じる温かみの中に、生活のきびしい様子がうかがえる。
しかし高山は、それと対峙して、それを見据えている。
そこに禅があると言える。
在るものは、あるがままに受け入れねばならない。
その真実から逃れようともがき苦しむが、やがて時間の上にいる限り、
「苦しみ」も「楽しみ」も同じに解決されていくことになる。
その証拠と言って良いのか、
後年描いた「食べる」(孫?)には「楽」(たのしみ)が描かれている。
この二つのどっちの作品のどの部分に禅がある。とかいうのではなく、
この二つの制作を結びつける時間こそ、永遠のあり様であり、生命である。
生命のあるところに禅は必ず存在する。
高山の作品の内容にふれていないので、少し言うと。
どちらも子供がごはんを食べる様子を描いているが、前作(前描き)はちゃぶ台で、
後描きはモダンなスチールのパイプのテーブルである。
それによっても時代の違いがはっきりうかがえる。
もちろん、高山の画面の作り方の変化は当然のように表れていた。
絵の解説はバラバラになったが、
もし、この二作品を観る機会があったらもう一度観てみたい。
また、高山辰雄の作品の中で、禅的なことをモチーフにした作品は実は多いが、
「食べる」は妙に気になる一点だった。
その他にも「出山」とか「坐す」などなど・・・。
高山の抽象作品は、日展では異色であった。
しかし、彼の抽象作品は、現代アートと言われる今の作家や、
後期印象派の作り出した作品と比べても、彼の方が優れていると思われる作品がある。
前に、日本の美意識を表すのに日本画が良いと考え、
福田平八郎の「雨」を紹介したが、
その後、近代日本人の芸術家の作品を選んでみると、
それらは、今のアート界で高値で取引されている作品より優れている。と言える。
ある作品は、ピカソやシャガールをしのぎ、ある作品は、
現代アートの寵児と言われる作家を超えている。
それら日本の作品は、世界のアート市場では、東洋の一国内における風俗画。
と低く評価されたり、あるいは日本国内でのこと。
と見られているが、それは完全に欧米優位主義と、
コレクターとディーラーの眼がないことを表している。
それにもう一つ付け加えると、日本のアート界を促進する人々が、
もっとしっかりしなければならない。
この作品は私の知る限り、若い時(前作まえさく)と
後年(あと描き)に描いた二作品を私は目にしている。
モチーフはどちらも子供であるが、若い時の作品は自身の娘であり、
もう一作は、今度は孫ではないかと推測する。
初めの作品は人物を正面から捉えている構図であり、
後の作品は横から人物を捉えている構図である。
高山辰雄にとってこの二つの作品は、
画家の時間の経過を見せていることがわかる。
初めの作品を描いている時は、それほど絵も売れていなかったので、
画面から感じる温かみの中に、生活のきびしい様子がうかがえる。
しかし高山は、それと対峙して、それを見据えている。
そこに禅があると言える。
在るものは、あるがままに受け入れねばならない。
その真実から逃れようともがき苦しむが、やがて時間の上にいる限り、
「苦しみ」も「楽しみ」も同じに解決されていくことになる。
その証拠と言って良いのか、
後年描いた「食べる」(孫?)には「楽」(たのしみ)が描かれている。
この二つのどっちの作品のどの部分に禅がある。とかいうのではなく、
この二つの制作を結びつける時間こそ、永遠のあり様であり、生命である。
生命のあるところに禅は必ず存在する。
高山の作品の内容にふれていないので、少し言うと。
どちらも子供がごはんを食べる様子を描いているが、前作(前描き)はちゃぶ台で、
後描きはモダンなスチールのパイプのテーブルである。
それによっても時代の違いがはっきりうかがえる。
もちろん、高山の画面の作り方の変化は当然のように表れていた。
絵の解説はバラバラになったが、
もし、この二作品を観る機会があったらもう一度観てみたい。
また、高山辰雄の作品の中で、禅的なことをモチーフにした作品は実は多いが、
「食べる」は妙に気になる一点だった。
その他にも「出山」とか「坐す」などなど・・・。
高山の抽象作品は、日展では異色であった。
しかし、彼の抽象作品は、現代アートと言われる今の作家や、
後期印象派の作り出した作品と比べても、彼の方が優れていると思われる作品がある。
前に、日本の美意識を表すのに日本画が良いと考え、
福田平八郎の「雨」を紹介したが、
その後、近代日本人の芸術家の作品を選んでみると、
それらは、今のアート界で高値で取引されている作品より優れている。と言える。
ある作品は、ピカソやシャガールをしのぎ、ある作品は、
現代アートの寵児と言われる作家を超えている。
それら日本の作品は、世界のアート市場では、東洋の一国内における風俗画。
と低く評価されたり、あるいは日本国内でのこと。
と見られているが、それは完全に欧米優位主義と、
コレクターとディーラーの眼がないことを表している。
それにもう一つ付け加えると、日本のアート界を促進する人々が、
もっとしっかりしなければならない。
by fromberlin
| 2009-05-23 21:31
| 日本の美のかたち