2009年 05月 16日
禅 |
禅をコンセプトにしている。
というと、何かメディテーション、
つまり、座禅とかをしているのか。
と聞かれるが、座禅は以前、40年前や、その後時々。
また数年前、ドイツの禅堂で一日座る機会があった。
座禅は、まるで禅の代表的な訓練のように考えられているが。
私が考えるに、座禅は禅とは無関係である。
禅を理解する方法として臨済以後取り入れられているが、
座禅は座禅であって、禅の本質ではないと考える。
それで私は、禅をどのような方法で理解しようとしているのか。
となるが・・・。
ほとんど特別なことはしない。
毎日朝起きて風呂に入り、
猫のトイレを掃除して、彼らに食事をやり、
私達はといえば、毎日同じ食事(ニンジンと酢キャベツ)を食べる。
その後、絵を描き出す。
切りの良いところで街や公園に散歩に行く。
散歩に行けば、人々が何をしているかを観察する。
乞食は街に出れば必ず見られる。
乞食を見ていると、人の心というより、自分の心が見えてくる。
労働者、とりわけ工事人夫を見ていると、自分の行動が見えてくる。
背広を着たビジネスマンを見ていると、お金のはかなさが見えてくる。
若者を見ていると、今が見えてくる。
老人を見ていると、人の幸福が見えてくる。
小さな子供を見ていると、生命の無限さを見ることができる。
また商店街は、時間の流れの中の栄枯盛衰を見せてくれる。
公園に行って自然の木や小鳥のさえずりやリスの飛び回る姿を見ていると、
人間のスケールの小さいことに気が付く。
散歩をしていると色んなものが見えてくるものである。
ということで、私の禅は、楽しい散歩禅である。
というと、何かメディテーション、
つまり、座禅とかをしているのか。
と聞かれるが、座禅は以前、40年前や、その後時々。
また数年前、ドイツの禅堂で一日座る機会があった。
座禅は、まるで禅の代表的な訓練のように考えられているが。
私が考えるに、座禅は禅とは無関係である。
禅を理解する方法として臨済以後取り入れられているが、
座禅は座禅であって、禅の本質ではないと考える。
それで私は、禅をどのような方法で理解しようとしているのか。
となるが・・・。
ほとんど特別なことはしない。
毎日朝起きて風呂に入り、
猫のトイレを掃除して、彼らに食事をやり、
私達はといえば、毎日同じ食事(ニンジンと酢キャベツ)を食べる。
その後、絵を描き出す。
切りの良いところで街や公園に散歩に行く。
散歩に行けば、人々が何をしているかを観察する。
乞食は街に出れば必ず見られる。
乞食を見ていると、人の心というより、自分の心が見えてくる。
労働者、とりわけ工事人夫を見ていると、自分の行動が見えてくる。
背広を着たビジネスマンを見ていると、お金のはかなさが見えてくる。
若者を見ていると、今が見えてくる。
老人を見ていると、人の幸福が見えてくる。
小さな子供を見ていると、生命の無限さを見ることができる。
また商店街は、時間の流れの中の栄枯盛衰を見せてくれる。
公園に行って自然の木や小鳥のさえずりやリスの飛び回る姿を見ていると、
人間のスケールの小さいことに気が付く。
散歩をしていると色んなものが見えてくるものである。
ということで、私の禅は、楽しい散歩禅である。
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by fromberlin
| 2009-05-16 00:09
| 禅