2009年 05月 21日
海外経験 |
奨学金をもらってドイツに来ている若い女性の画家と会った。
奨学金は一体どこからもらったのか、根掘り葉掘り聞いて行くと、
地方(岡山)の一人の画家の設立した基金だと言う。
そこでは、奨学金を出してもうるさい規約で若い連中を縛ることもなく、
「とにかく、好きな外国に行って、一年間ぼーっとして来い。」
なんていうのは、やはり出資者が芸術家であるから、
芸術について考えさせる機会を作るにしても、
自身の経験の中から出ているのである。
私達も、一人でも多くの若者に海外での活動経験を体験してもらいたい
と思っている。
なぜ若い連中に海外に出ることを勧めるか。といえば、
日本にいる時は、日本というものを再認識することなどなかったが、
海外にいるとおそらく誰もが、日本について考え、日本人を意識し、日本とは・・・
と考えるようになる。
私のブログを見てメールをくれた若者も、学生の時ロンドンとアメリカに留学していて、
私の言っていることに賛同する。とあった。
私は特別なことをみなさんに「伝えよう。してみよう。」と言っているのではなく、
常識の中でものを考えられる社会づくりを目指しているのである。
私は自分の作品を通して日本の心を表現しようとして、
禅について語っているが、禅は、実は常識に満ちあふれている。
しかし、それを理解させようとすると
現実に起きている非常識に語りかけていかねばならない。
それには禅を用いて説明すると、相手も納得しやすいのである。
なぜならば、禅は今や世界に認知されているから。
また禅は、ある意味において非常に直接的で、それには説明を用いないことがある。
するとそれが理解しづらいところも出てくるが、実は何の説明も必要ないのである。
基金を設立した画家もまた、若い連中に余分な説明をせず、
「ただ、外国に行って見て来い。」と言っている。
「ただ、見る」という経験による真実は、外国について何千の説明をするよりも
確かな真実を若い連中が体に憶え込ませることが出来る。
その一つの経験が、やがて彼らに無限大の拡がりを持たせる。
経験によって理解する真実こそ、今の若い連中に必要なことである。
今日では、経験しなくても多くの情報が耳に目に入って来る。
しかし、それらはすべてバーチャルの世界である。
奨学金は一体どこからもらったのか、根掘り葉掘り聞いて行くと、
地方(岡山)の一人の画家の設立した基金だと言う。
そこでは、奨学金を出してもうるさい規約で若い連中を縛ることもなく、
「とにかく、好きな外国に行って、一年間ぼーっとして来い。」
なんていうのは、やはり出資者が芸術家であるから、
芸術について考えさせる機会を作るにしても、
自身の経験の中から出ているのである。
私達も、一人でも多くの若者に海外での活動経験を体験してもらいたい
と思っている。
なぜ若い連中に海外に出ることを勧めるか。といえば、
日本にいる時は、日本というものを再認識することなどなかったが、
海外にいるとおそらく誰もが、日本について考え、日本人を意識し、日本とは・・・
と考えるようになる。
私のブログを見てメールをくれた若者も、学生の時ロンドンとアメリカに留学していて、
私の言っていることに賛同する。とあった。
私は特別なことをみなさんに「伝えよう。してみよう。」と言っているのではなく、
常識の中でものを考えられる社会づくりを目指しているのである。
私は自分の作品を通して日本の心を表現しようとして、
禅について語っているが、禅は、実は常識に満ちあふれている。
しかし、それを理解させようとすると
現実に起きている非常識に語りかけていかねばならない。
それには禅を用いて説明すると、相手も納得しやすいのである。
なぜならば、禅は今や世界に認知されているから。
また禅は、ある意味において非常に直接的で、それには説明を用いないことがある。
するとそれが理解しづらいところも出てくるが、実は何の説明も必要ないのである。
基金を設立した画家もまた、若い連中に余分な説明をせず、
「ただ、外国に行って見て来い。」と言っている。
「ただ、見る」という経験による真実は、外国について何千の説明をするよりも
確かな真実を若い連中が体に憶え込ませることが出来る。
その一つの経験が、やがて彼らに無限大の拡がりを持たせる。
経験によって理解する真実こそ、今の若い連中に必要なことである。
今日では、経験しなくても多くの情報が耳に目に入って来る。
しかし、それらはすべてバーチャルの世界である。
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by fromberlin
| 2009-05-21 20:18
| 社会