2014年 06月 06日
先生 |
一念発起して何かをしたい。
と思ったら先生など持たないことだ。
先生は便利なようで不便である。
何でも教えてもらえることは大変便利なことであるが、
所詮その先生の範疇から抜けるということは難しい。
仮に先生を超えたとしても後のしがらみが大変である。
自分に教える人がいなければ
苦労はするけれども
自分流に新しいことを出来るわけである。
それが一般に認められるためには時間が掛かるが、
私はその方が人生にとって良い結果が出ると考える。
私は先生と呼ぶ人は二人いる。
一人は小学校一年から転校する五年の三学期までの中村先生。
もう一人は19才の時
絵とは何かということを教えてくれた
日本画の中村先生。
その先生には五年師事した。
残念ながら私が26才の時亡くなった。
それ以来、私は先生と呼ぶべき人を持たなかった。
それについて私は未だに後悔していない。
日展初入選の折、高島屋デパートで
日展日本画部の懇親会があり、
初めてそのような場所に出た。
高島屋のスタッフは私ごとき若造にも
「先生、先生」と言っていた。
その時は「そういうものか」と思うだけであったが、
今、その時のことを考えるとバカバカしい思いである。
そうして、若い時から持ち上げられているために
社会的に有頂天になり
人生の終わりを迎えて
どれほどの作品をつくっているかとなると、
くだらないものをつくって死んでいくことになる。
日本国内で活動する芸術家に言いたいのは、
もっと作品本意になることである。
そうしたところから見ると
芸術院会員制度などは茶番劇に等しい。
と思ったら先生など持たないことだ。
先生は便利なようで不便である。
何でも教えてもらえることは大変便利なことであるが、
所詮その先生の範疇から抜けるということは難しい。
仮に先生を超えたとしても後のしがらみが大変である。
自分に教える人がいなければ
苦労はするけれども
自分流に新しいことを出来るわけである。
それが一般に認められるためには時間が掛かるが、
私はその方が人生にとって良い結果が出ると考える。
私は先生と呼ぶ人は二人いる。
一人は小学校一年から転校する五年の三学期までの中村先生。
もう一人は19才の時
絵とは何かということを教えてくれた
日本画の中村先生。
その先生には五年師事した。
残念ながら私が26才の時亡くなった。
それ以来、私は先生と呼ぶべき人を持たなかった。
それについて私は未だに後悔していない。
日展初入選の折、高島屋デパートで
日展日本画部の懇親会があり、
初めてそのような場所に出た。
高島屋のスタッフは私ごとき若造にも
「先生、先生」と言っていた。
その時は「そういうものか」と思うだけであったが、
今、その時のことを考えるとバカバカしい思いである。
そうして、若い時から持ち上げられているために
社会的に有頂天になり
人生の終わりを迎えて
どれほどの作品をつくっているかとなると、
くだらないものをつくって死んでいくことになる。
日本国内で活動する芸術家に言いたいのは、
もっと作品本意になることである。
そうしたところから見ると
芸術院会員制度などは茶番劇に等しい。
by fromBerlin
| 2014-06-06 08:41
| アート活動