2010年 07月 23日
答え |
私達を鍛えていくのは、言葉や文字によってではない。
言葉や文字は、単なる目標を指し示すに過ぎず、
多くのことは体験によって成される。
禅は議論をしたり、学説を立てたり説教したり、
説明を試みたりすることを拒む。
それどころか、自分の中から出て来た問いに対する答えは、
自分自身の中に見つけ出せ、と言う。
なぜならば、答えは、問いのあるところにこそあるからである。と。
実は私たちの日常の行動-生活は、禅にみちている。
しかし、私たちはそれらに気づかず、
あるいは気づこうともせず、行動している。
それは、あるいは正しいと言える。
毎日の行動がすべてこれが禅だ。これも禅だ。と言っていた、
むかでが自分の足を見て動けなくなる例えと同じである。
しかし、私たちはすべてのことに無意識で生きるわけにはいかない。
もし、無意識で生きようとするならば、
何ほどの創造も進歩もなく、ただ、動物のごとく生きるだけである。
人が動物と違うのは、その一点と言っても良いし、
動物より優れているのは、またその一点である、と言える。
さらに、人は限りなく進歩する生命体である。と言える。
ところが、ある所にこだわり、停滞すると、そこは感情の集合滞となる。
感情の中からは想像も進歩も生れないのである。
つまり感情は、正義を歪めて、あるいは正道を拒み、
果ては悪しきことのみ想像するようになる。
その結果、自分をも傷つけ、他人も傷つけ、
また、さらに、大きな事件や、戦争となる。
つまり、全ての戦いは、無意識で生きる、
あるいは、進歩的考えを、創造性を拒む生き方にあると言える。
言い方を変えると、人は、前進する、進展することを課せられた生命体である。
私たちは常に創造を働かせ、次の時間に入っていかねばならない。
停滞はやがて、時間に潰され、生命を失う。
私たちは、体験の中に生きているのである。
体験はまた、新しい経験の連続である。
また、こうも言える。
一歩進めば視野が変化する。
二歩進めばさらに視野が広がる。
先に行かねば今の答えは出てこない。
P.S.
フランクフルトの展覧会は終わり、みなさんにお礼を言って終りにしました。
今回、参加者の一人、青山夫妻の協力は大変大きなものでした。
心からお礼申し上げます。
また、そのお礼にギャラリーDENでの個展を約束しました。
ガンバッテ下さい。
言葉や文字は、単なる目標を指し示すに過ぎず、
多くのことは体験によって成される。
禅は議論をしたり、学説を立てたり説教したり、
説明を試みたりすることを拒む。
それどころか、自分の中から出て来た問いに対する答えは、
自分自身の中に見つけ出せ、と言う。
なぜならば、答えは、問いのあるところにこそあるからである。と。
実は私たちの日常の行動-生活は、禅にみちている。
しかし、私たちはそれらに気づかず、
あるいは気づこうともせず、行動している。
それは、あるいは正しいと言える。
毎日の行動がすべてこれが禅だ。これも禅だ。と言っていた、
むかでが自分の足を見て動けなくなる例えと同じである。
しかし、私たちはすべてのことに無意識で生きるわけにはいかない。
もし、無意識で生きようとするならば、
何ほどの創造も進歩もなく、ただ、動物のごとく生きるだけである。
人が動物と違うのは、その一点と言っても良いし、
動物より優れているのは、またその一点である、と言える。
さらに、人は限りなく進歩する生命体である。と言える。
ところが、ある所にこだわり、停滞すると、そこは感情の集合滞となる。
感情の中からは想像も進歩も生れないのである。
つまり感情は、正義を歪めて、あるいは正道を拒み、
果ては悪しきことのみ想像するようになる。
その結果、自分をも傷つけ、他人も傷つけ、
また、さらに、大きな事件や、戦争となる。
つまり、全ての戦いは、無意識で生きる、
あるいは、進歩的考えを、創造性を拒む生き方にあると言える。
言い方を変えると、人は、前進する、進展することを課せられた生命体である。
私たちは常に創造を働かせ、次の時間に入っていかねばならない。
停滞はやがて、時間に潰され、生命を失う。
私たちは、体験の中に生きているのである。
体験はまた、新しい経験の連続である。
また、こうも言える。
一歩進めば視野が変化する。
二歩進めばさらに視野が広がる。
先に行かねば今の答えは出てこない。
P.S.
フランクフルトの展覧会は終わり、みなさんにお礼を言って終りにしました。
今回、参加者の一人、青山夫妻の協力は大変大きなものでした。
心からお礼申し上げます。
また、そのお礼にギャラリーDENでの個展を約束しました。
ガンバッテ下さい。
by fromberlin
| 2010-07-23 17:39
| 禅