2009年 12月 30日
私の絵の描き方 |
私の絵の描き方を紹介してみると、
一言で言うと、「積み重ね一髪仕上げ」ということになる。
これは、どういうことか。と言えば、
何段階かに画面が重ねられていくわけで、
例えば、初めの下塗りの段階で、抽象絵画としての画面を作り上げ、
次にそれを全面つぶして、新しいものにする。
つぶしたら始めの画面が無駄ではないか。
と言われるが、その初めのところから、
画面に自分の精神を注入していくような
筆づかいや絵具の塗り方を繰り返し、
自ずと重厚感を生みだす方法。とでも言おうか。
その上に金箔を押して画面をつぶしても、
その金箔をまた大事にすることなく、
つまり、金箔の美しさを捨て去ることが大切で、
そうしないと、金箔の力によって、次の作業が動きが取れなくなってくる。
何度も金箔を重ねていくことになるが、
それは金箔の美しさではなく、金箔が金箔として存在しなくなるまで。である。
それから最後に、その上にものを描いたりするが、
これは一髪仕上げである。描き損じは、きかない。
それ故、次の作業に移る時に、その画面によって、
何を描くか。が決まって来る。
初めの構想というものは、
制作の2分程度のところくらいまでしか考えず、
2分進んだら、またそこに何通りかの2分が見えて来る。
またそこまで行って、何通りかの2分が見える。
という方法であるから、
常に画面とのコミュニケーションが必要である。
実はこうした制作方法は、私の日々の生活・生き方と類似しているのである。
これを禅的に言えば、
前に進まずして視野は開かないのであって、
一歩進むごとに視野は変ってくる。
その進む方向は、経験の積み重ねによるところ大である。
頭(知識)でそこに行くのではなく、行動(意志)が目的地に連れて行く。
一言で言うと、「積み重ね一髪仕上げ」ということになる。
これは、どういうことか。と言えば、
何段階かに画面が重ねられていくわけで、
例えば、初めの下塗りの段階で、抽象絵画としての画面を作り上げ、
次にそれを全面つぶして、新しいものにする。
つぶしたら始めの画面が無駄ではないか。
と言われるが、その初めのところから、
画面に自分の精神を注入していくような
筆づかいや絵具の塗り方を繰り返し、
自ずと重厚感を生みだす方法。とでも言おうか。
その上に金箔を押して画面をつぶしても、
その金箔をまた大事にすることなく、
つまり、金箔の美しさを捨て去ることが大切で、
そうしないと、金箔の力によって、次の作業が動きが取れなくなってくる。
何度も金箔を重ねていくことになるが、
それは金箔の美しさではなく、金箔が金箔として存在しなくなるまで。である。
それから最後に、その上にものを描いたりするが、
これは一髪仕上げである。描き損じは、きかない。
それ故、次の作業に移る時に、その画面によって、
何を描くか。が決まって来る。
初めの構想というものは、
制作の2分程度のところくらいまでしか考えず、
2分進んだら、またそこに何通りかの2分が見えて来る。
またそこまで行って、何通りかの2分が見える。
という方法であるから、
常に画面とのコミュニケーションが必要である。
実はこうした制作方法は、私の日々の生活・生き方と類似しているのである。
これを禅的に言えば、
前に進まずして視野は開かないのであって、
一歩進むごとに視野は変ってくる。
その進む方向は、経験の積み重ねによるところ大である。
頭(知識)でそこに行くのではなく、行動(意志)が目的地に連れて行く。
by fromberlin
| 2009-12-30 05:26
| アート