2009年 07月 01日
ロスコとアボリジニ |
オーストラリア・アボリジニの古い作品に、
マーク・ロスコの作品と類似した作品がある。
それは明らかに、アボリジニの作品の方が先に作られたものであるが、
ロスコが、アボリジニのそうした作品を見ていたかどうかは、
何の資料からも私には理解出来ていない。
よく、異なった情況下にある者同士が、
偶然、似ている作品をつくっていることは、珍しいことではない。
私がこれに-つまりロスコとアボリジニの作品に-
興味を持ったのは、ロスコは現代アートにおける優れた芸術家である。
アボリジニの作品は、原始的生活の中で作られている。
この全く異なった情況下で作られた作品が、芸術性において、
高い品格のもとで見ることが出来ることに驚く。
ロスコの作品はアボリジニのそれと比べると、洗練された画面の美しさがある。
アボリジニの画面は、荒さは目立つが、決してロスコの美しさに負けていない。
逆に、荒さが、画面に強さを与えている。
もう一つ比較してみると、ロスコは、高い教育を受けた人である。
おそらく、自身も高い芸術教育を学んでいる。
それにひきかえアボリジニは、
決してそのような情況にはなかったということは調べるまでもない。
判っきり言えることは、ロスコは高い教育の元にあり、
アボリジニは全く芸術的教育を受けていない。
この二者の関係を見て言えることは、
芸術は、教育によって生まれるとは限らないということである。
ある意味で、過剰な教育は必要ない。と言った方が良い。
つまり芸術は、
「その人の潜在意識の中にどれほどの原資があるか。」
ということである。
その原資を引き出す手立てとして、多少の教育はあって良いと思うが、
決して教育者が優れた芸術家になるわけではないところを見ると、
芸術は教育ではない。ということは明白である。
繰り返すが、芸術は、
その人の潜在意識の中に潜む、何ものかが引き出されていくものである。
その方法として、その人それぞれの経験の中から出てくる。
と考えられる。
歴史上の優れた芸術家を見ても、それは明らかである。
つづく
マーク・ロスコの作品と類似した作品がある。
それは明らかに、アボリジニの作品の方が先に作られたものであるが、
ロスコが、アボリジニのそうした作品を見ていたかどうかは、
何の資料からも私には理解出来ていない。
よく、異なった情況下にある者同士が、
偶然、似ている作品をつくっていることは、珍しいことではない。
私がこれに-つまりロスコとアボリジニの作品に-
興味を持ったのは、ロスコは現代アートにおける優れた芸術家である。
アボリジニの作品は、原始的生活の中で作られている。
この全く異なった情況下で作られた作品が、芸術性において、
高い品格のもとで見ることが出来ることに驚く。
ロスコの作品はアボリジニのそれと比べると、洗練された画面の美しさがある。
アボリジニの画面は、荒さは目立つが、決してロスコの美しさに負けていない。
逆に、荒さが、画面に強さを与えている。
もう一つ比較してみると、ロスコは、高い教育を受けた人である。
おそらく、自身も高い芸術教育を学んでいる。
それにひきかえアボリジニは、
決してそのような情況にはなかったということは調べるまでもない。
判っきり言えることは、ロスコは高い教育の元にあり、
アボリジニは全く芸術的教育を受けていない。
この二者の関係を見て言えることは、
芸術は、教育によって生まれるとは限らないということである。
ある意味で、過剰な教育は必要ない。と言った方が良い。
つまり芸術は、
「その人の潜在意識の中にどれほどの原資があるか。」
ということである。
その原資を引き出す手立てとして、多少の教育はあって良いと思うが、
決して教育者が優れた芸術家になるわけではないところを見ると、
芸術は教育ではない。ということは明白である。
繰り返すが、芸術は、
その人の潜在意識の中に潜む、何ものかが引き出されていくものである。
その方法として、その人それぞれの経験の中から出てくる。
と考えられる。
歴史上の優れた芸術家を見ても、それは明らかである。
つづく
by fromberlin
| 2009-07-01 21:09
| アート